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バリ島の歴史 |
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ジャワ原人の故地であるジャワ島に隣接し、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心に文明が開けていたと推定されるが、4世紀に移動して来たヒンドゥー教に属する人々が来てから大きく発展した。 9世紀頃から独自の王朝を築いていたことが資料から窺えるが、常にジャワ島の政権の影響下にあり、1342年マジャパヒト王国に侵攻された後はその支配下にあった。16世紀にマジャパヒト王国が、イスラム勢力により衰亡すると、ジャワ島から独立し、ゲルゲル王朝が成立し、東進するイスラム勢力に対抗した。17世紀になると、オランダ東インド会社を始めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これと言った特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配下で、バリ人による自治を保った。 19世紀、帝国主義的風潮の下、オランダはバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下におき、最後まで残った1908年バリ島の名目的支配者であったクルンクン朝(ププタンにより滅ぶ)を滅ぼし、全土を植民地とした。オランダは、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーと言った商品作物の栽培を奨励する一方で、奴隷制の廃止、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等ヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、この当時、バリ島の風俗がヨーロッパに紹介され、それに魅せられたヨーロッパの芸術家が来島、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立する。 クルンクン県西部バンジャランカン郡に残る旧日本軍の防空壕 太平洋戦争時、バリ島は日本の占領下にあったが、戦傷者のための戦時病院を開設したくらいで、住民への弾圧などはなかったため、対日感情は現在に至るまで良い。終戦後、オランダの再支配に対して抵抗した。殊にゲリラ部隊を率いて壮烈な戦死を遂げたグスティ・ングラ・ライ中佐は、英雄としてその名を国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめている。スカルノらの活躍により、蘭領インドネシアは1949年オランダから独立し、1950年バリ島はインドネシア共和国に参加する。参加当初から、宗教問題が最大の問題であったが、インドネシア政府の繊細な配慮の下(観光による外貨獲得が最大の目的であった可能性は大であるが)、独自の文化を維持しつつ世界的観光地へと成長した。 オランダが最初にバリ島を訪れたのは1597年のことでゲルゲル王朝の最盛期であった。 がこれといった特産物はなかったのでさほど熱意を示さず、他の外国人に握られていた。 19世紀に東南アジアを舞台に繰り広げられた植民地争奪戦の中で、オランダは次第にバリ島に手を伸ばしはじめる。 オランダの目的は、アヘン貿易の掌握と、農業や商業に対する税の徴収にあった。この税の徴収や治安維持のためにオランダ植民地政府は、旧来の王家や貴族家の構成を認めて彼らにその業務を代行させる間接的な統治を造りあげた。オランダ植民地政府は奴隷制を廃止し、王族の火葬に際しての妃たちの殉死を禁止し、病院と学校を造り、用水を整備し、 コーヒーなど換金作物の栽培を推奨した。 バリ島を支配するオランダの行政官や学者の頭にあったのは、ラッフルズ以来の見方である。彼らはバリ人をヒンドゥー教徒ととらえ、したがってその社会はインドのようなカースト社会であると考えた。 土着勢力の権力争いを力で抑えつけた植民地統治は、バリに久方ぶりの安定をもたらした。 やってくる植民地統治官は、統治に必要な伝統的制度や習慣について細かく尋ね、記録し、出版した。芸能の面では、バリに魅せられた西洋人芸術家が新たなインスピレーションを吹き込み、今日の観光客が楽しませている音楽や踊りや絵画の様式が打ち立てられた。1930年代バリ文化の「ルレッサンス」といった様相を呈した。 太平洋戦争中バリ島は、日本の占領下にあった。戦闘による被害こそなかったものの、軍による過剰な物資の調達によって、バリの人々は歴史始まって以来の欠乏生活を強いられた。その後1949年のハーグ協定により、スカルノ大統領率いる共和国政府は独立を獲得し、 1950年にはバリ共和国政府に参加して、共和国の一員として歩むことになった。 共和国体制下で問題になったのは、イスラム教徒が大多数を占める中で、ヒンドゥー教を核とするバリの文化をいかに保持してゆくかである。国の宗教政策に沿って教義や祭司制度の整備が進められ、その成果は義務教育の中で教え広められている。 1970年以降バリ島インドネシア随一の国際的観光地と位置づけられ、外貨獲得を目的として積極的な観光客の誘致政策がとられている。観光の目玉は、「異国情緒あふれる祭りや芸能」であり、各地で伝統芸能が活性化され、儀礼が華美になってきている。 バリ人の生活はバリ・ヒンドゥー教と密接に関係している。その総本山は、標高3,142mの聖峰アグン山、その南麓にあるブサキ寺院は、バリ・ヒンドゥー教の総本山で、母なる寺とも呼ばれている。荘厳な雰囲気が漂う中に、大小30余りの寺が建ち並ぶ巨大な寺院の複合体である。1,000年を超える歴史を持ち、「母なる寺院」バリ島最古にして最大の規模を誇る。 ブサキ寺院の歴史はかなり古く、8世紀には既に、仏教僧の修行の場として使われていた。 16世紀、ゲルゲル王朝時代に、王家の寺院となってから急激に存在感を示すようになった。 それ以降、バリ島に大小合わせて、2万とも、或いは、3万あるとも言われる、寺院を統括するバリ・ヒンドゥー教の総本山として、絶大な信仰を集めるに至った。 祀られている神々は、破壊神シヴァ・繁栄神ヴィシュヌ・創造神ブラフマの三大神で、そのヒンドゥー三大神を中心に、多くの神の祠(ほこら)が囲むように配置されている。 駐車場から、緩やかな勾配の参道を、10分ほど歩くと、やがて目の前に偉容を現すのが、ブサキ寺院の中心となる、シヴァ神を祭るプナタラン・アグン寺院だ。 |
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